油断すると過去の自分語りを始めてしまうクセがある。過去の経験とは役立ちそうで役立たないものだ。人に向けて意気揚々に語り出してしまうのは憚れるもの。しかし俺はわかっている。こんな駄文そのもののブログなんて、誰に向けて書いているのか。1番の読者は誰なのか。それは自分自身に他ならない。1番読んでるのも自分だと思う。どれだけ恥ずかしく拙い文章でも、当時のことを反芻しつつ、見つめ返す機会となる。意義あるものだ。

今日は「最近どうしてんのかなあ」「会いたいなあ」と思った人たちをつらつらと書いてみたいと思う。昨今の情勢じゃ遊びに行くのはおろか、飲食を共にするのも厳しい。思い出を掘り起こしながら、再びの邂逅を思い馳せてみましょう。

 

・レナード

僕の両親は転勤族で、実家どこ?と言われてもどう答えようか考えてしまうくらい全国を飛び回ってきたが、もっとも居住期間が長かったのが、神奈川県の相模原市だ。3歳から11年間住んでいたので、幼少期の大半をここで過ごしていたことになる。

住んでいたマンションの横には小さい公園があって、暇な時にそこに行けば、近所の知ってる誰かしらがだいたい遊んでいた。そこで出会ったのがフィリピン人のレナードという同い年の少年だった。彼は単身赴任の父親と2人で、僕の隣のマンションに暮らしていた。しかしいつでも会えるというわけではなく、部屋のチャイムを鳴らしても反応がないことが多く、彼と遊ぶときはだいたい、彼から僕の家へ訪問してくる時だけだった。

肌の色も主言語も違ったが、彼とはなぜか妙にウマがあった。よくマンションの廊下でミニ四駆を走らせた。漫画の真似をして、水たまりを横切って水しぶきをあげながら走らせあったものだ。コースを持っていなかった、野レーサーである僕達の主な遊び場は屋外であった。ベイブレードも公園の水道?の石で出来た囲いを使って遊んでいたように思う。

彼は温厚かつ、真面目な性格だったと記憶している。彼と何か悪いことをしたり、誰かに怒られたことは一つもない。お父さんが相当厳しい人だというのを聞いたことがある。会ったことは一度だけ。彼の家で冷凍のラズベリーをシャリシャリ食ってた時にばったり帰ってきたのだ。なんでそんなの食ったんだと、外国のチョコレートをもらったような気がする。味は・・・覚えてない。20年以上前だしな・・・

彼とさよならの一言もないまま別離に至ってしまったのが本当に悲しい。僕は4年生から全寮制の大阪の学校に入ることになり、転校することになった。しかしその頃、彼は父親についてフィリピンに帰っていたらしく、一言も交わす間もなく僕は大阪に旅立ってしまった。その何年か後、家にレナードが訪ねてきたと母から連絡があった。僕は大阪で寮生活を送っており、帰省できるのは長期休みの間だけ。部活もやっていたので、自分の家に帰れるのはごく限られた時間だけで、その間にレナードと会える機会はとうとう作れなかった。

14歳の時に父はまた転勤になり、今度は愛知県の豊田市に移り住むことになった。もうレナードがあの相模原の家を訪ねてきても、そこに僕はおろか僕の家族もいない。彼に寂しい思いをさせてしまったのではないかと思うと、ぎゅっと胸が苦しい。

数年前、ふとレナードのことを思い出し、母に連絡先でも知らないかと聞いてみた。その時初めて知ったことがいくつかある。彼の父もまた仕事の都合で日本とフィリピンを行き来しており、彼もついていっていたこと。日本の学校に馴染めず、遊べる友達は僕しかいなかったこと。連絡先は知らず、知る術もないこと。

彼には謝らなければならないことがある。彼のことは好きだったし、たしかに仲良かったが、数ある友達の中の1人という関係のようにしか思っていなかった。自分勝手なエゴまみれの理屈で、彼には本当に申し訳ない。彼の思いを考えると、心の奥がぎゅっと締め付けられる気分になる。

なんとか彼にまた会えないものだろうか。今どこにいるのだろう。何をしているのだろう。母国で働いているのだろうか。フィリピンの空を想う。見える景色は違っても、同じ空を見上げているのだろう。あるいは彼も父親のように、日本に来ていることがあるのかもしれない。あなたの周りにフィリピン人の知り合いなんていませんか?もしや、そいつはレナードってな名前じゃありませんか?もしまた会えたら、ミニ四駆ベイブレードじゃなくて、冷えたビールでも酌み交わして笑い合いたい。フィリピン人のレナードって、知りませんか?

 

・白井

白井ともっとも遊んだのは小2の頃。クラスが同じで、席が隣になることが多かった。

前述のレナードとは真反対の、悪友だった。授業中は僕とともに落ち着きがなく、隣のクラスに遊びに行ったりして、よくそこの担任に怒られたのを思い出す。朝礼で「みんなのうた」的な、きわめて道徳的な歌をみんなで歌うという行事があったのだが、僕と彼は歌詞の一部分を「鼻毛」や「うんこ」に替えて歌っていた。“はーなげ!はーなげ!はーなげを見せて〜♪”という具合に。

僕が転校してしまってからは、ずっと疎遠になってしまっていたが、18歳の時に、小学校の同窓会で久しぶりに彼と会った。お互いパッと見てすぐ「あ、コイツだ」とわかった。僕はほとんど変わっていなかったらしい。彼は金髪にジャージという田舎ヤンキーの正装で現れており、今何してんの?と言うと、いやあ、とちょっと口籠もった後に、暴走族やってる。と彼は言った。僕は当時大学生で、小中高一貫で育った筋金入りの温室育ちであったため、彼のような存在が新鮮だった。こんなに違うとはなあ、と彼は言ったが、無勉強のFラン大生が彼に対して特に優越感など芽生えるはずもなかった。高校辞めて鳶職になり、そこそこの給料を貰って楽しくやってるそうだった。受験に失敗して大学に入った僕は、当時それはそれは腐っており、彼の笑顔が眩しく感じたのをよく覚えている。

彼ととても久しぶりに話すはずなのに、懐かしいとかそんな気持ちよりも、安堵感というか、彼がそこにいて、ドリンクバーのグラスを持ちながら僕と話しているのが、とても自然で、至って当たり前のことのように感じていた。何も変わっていない。友情を確かめ合うような言葉もなく、最近どうなの?と、近況を報告するでもなく、「あいつに金借りててさあ、今会いたくないんだよ」って、僕の仲良かった友達のことを話したりなんかしていた。

時は進んで、今から1年前、彼の訃報を相模原の友達から聞いた。自殺。薬を大量に摂取して、彼は死んだ。一瞬胸がずくんとして、時が止まった。葬儀もなく、誰に看取られるでもなく、彼はこの世から去っていった。別世界の出来事のように、漫画みたいに思えて信じられなかった。でもこれは現実らしい。なんてことだろう。寝耳に水の知らせだった。

白井は中学の頃から不良グループに属して、他校のヤバいヤンキーともつるんだり、“そういう”道を進んでいたらしい。僕は彼と同じ道を進んだわけでもなかった。自死を考えるほどの、彼の苦しみさえ知らなかった。それが歯がゆくて悔しくて仕方なかった。

レナードも白井も、正直今となってはどうしようもない、会おうと思っても叶わぬ人たちとなってしまった。今僕の右親指を突き動かしているのは、後悔の2文字だけである。会いたいなあと冒頭で言ったものの、マジでどうしようもない2人を取り上げてしまったことを反省している。存命で、連絡も普通に取れるけど会えていない人もいるので、次はそういう人たちを取り上げてみたい。