疑え!

人の立場になってモノを考える。

人との営みの中で生きていれば、無意識のうちにでも多少なり身につき、実行している精神性である。他己(たこ)は俯瞰の第一歩だ。人の喜ぶことをやってナンボの世の中じゃないか。浪花節だの、我こそは平和の伝道師だのとのたまうつもりはないが、気前よく生きていきたいなあと思っている。

最近本を買いました。何だと思う?なんとまあ、投資の本でございます。冗談みたいな本を買ってしまった。しかしこれには背景がある。生まれてからの29年間、僕は「お金について学ぶこと」をとことん放棄し、目を背けてきた。できるならそういうのと縁遠いところでやっていきたいと思っていた。しかしながら、そういう時代ではなくなってきている。無知は死に直結する。このままおバカを続けているとマジで死ぬ。会社が、国が、誰かが無条件で死ぬまで守ってくれるわけがないのだ。自由度が広がっていくと同時に、「自己責任」の割合も増えた。ようやく危機感に目覚め、とりあえずやってみっかと行動してみるのだった。

「マンガでわかる シンプルで正しいお金の増やし方」山崎元

一冊目に手に取ったのがコレだ。マンガだし、とっつきやすそうだ。3分の2くらいマンガ。あとは文字。そこまで文字は苦じゃないが、1日1章くらいの頻度で読んでみた。自分の中の常識がみるみると覆った。小難しいのはそういう会社に任せたらいいじゃん、セミナー・人を頼りにしたらいいじゃん、ローン組んで買い物?金利?ええやん、こまけえこた気にすんな。ヤられた、俺は体の良いカモだったのか。何にいくら払ってるのかもわからなかった俺は、金の世界でとことん弱者であった。この体験からお小遣い帳をつけ始めました。まずは自分にできることから、ね。

この本の良い点は、「〇〇するな!」に対して「じゃあどうする?」のアンサーが明確にされているところだった。でもそのアンサーは「自分が正しい知識を身につけ、運用する」ということに終始している。アタマで考えることを放棄するなという点が強調されているように感じた。この本の中で「こうしろ!」と言われていることさえも、まったくもって正しいとは言い切れないという解釈さえ出来る。読者のケースバイケースなのだ。

しかしまあ、ここまで言い切って色んな偉い人を敵に回さないのだろうかと大きなお世話を焼いてしまっている。資産運用のしの字も知らない自分にとって、そんな邪推を生んでしまうくらい刺激的な内容とも言えた。月給手取りの3倍。それ以上のお金を銀行に預けていても「死に金」だという。僕の世代だと60〜100万円くらいでしょうか。まずはそんくらいの貯金を作らないとなあ・・・トホホ・・・

復習がてらチラチラ読み直す程度にも面白かったです。うす。

 

「ビジネスエリートになるための 教養としての投資」奥野一成

今読んでるのがコレ。当たり前だけど全部文字。でもそんなの気にならないくらい面白い。

まず投資と投機についての解説が入る。ここでいう投資とは、「長期的に利益を得るために、強い企業そのものへお金を預け、企業をさらに成長させることでリターンを得る」ということ。逆に投機とは?「短期的に大きな利益を得るため、市場にお金を注ぎ込み、企業価値が上がったところで利ざやを獲得する」。自分の言葉で書いてみたが、こんな感じと理解している。「投資」と聞いて思い浮かぶのは後者だと思う。だからこそシビアで妙にいかがわしいものだと感じる。モロにギャンブルだからだ。破滅のリスクも常につきまとう。ハイリスク・ハイリターンが投機。ローリスク・ローリターンが投資と解釈した。

農地に例えるとわかりやすかった。農地を購入し、「育てた作物を売って利益を得る」のが“投資”。「土地の値段が上がったところで売り、利益を得る」のが投機。どちらにも共通しているのは、事前の下調べを徹底的に行わなければならないのは両者のもちろんのことだが、その調べのポイントと、つきまとうリスク、リターンは明らかに違う。リターンが大きいのは明らかに後者だが、著者は「投機はするな」と言い切らないまでも、ここでの論調、自身の哲学は“投資”をあくまで推している。

A「まだまだ小さい事業だけど、これから伸びるんだよ。今買っといたらデカイよ」

B「もうライバルは駆逐した。新規参入も難しい分野だから今後も安定した利益が見込めるよ」

どっちの会社の株買いますか?Bこそがまさに著者の投資哲学である「長期(永続的)投資」の思想である。とにかくリスクを消す。そして買った株は「売らない」。はあ?じゃあどうやって利益出るの?てなものだが、「ほぼ永続的に成長が見込める企業の株を買い、そのまま放っておいて株価を上げる」ことで、長い時間をかけてゆっくり元金を増やせるのだ。これが長期投資のからくりである。

この本を読んでいると、ことごとく「バフェット」という人の名前が登場する。コカコーラの筆頭株主だそうだ。少数銘柄の集中投資によって巨額の富を築いた投資家らしい。著者はこの人のトレード方式を日本で出来ないか?ということを念頭に今活動しているとのこと。まあ心の師匠みたいなものだろう。

せっかくなので、コカコーラという例を挙げよう。現在炭酸飲料の世界市場において、コカコーラ社とペプシコ社がほぼ全てのシェアを二分している(らしい)。ライバルはとことん買収し、50何年と増収益を維持してきた。とんでもねえな。時々Appleに譲ることもあるらしいが、世界で一番株価の高い会社らしい。そんなん、もうてっぺん取ってるのにこれ以上増収なんかほんまにするんか?と思うが、あながちそうでもない。世界人口は増え続け、ときどきコーラ買って飲もうくらいの余裕が持てる中流階級の人がますます増えてくる。単純な話、人の暮らしが豊かになればなるほど、コーラは売り上げを伸ばすわけだ。インフラの整備や科学技術の発達などと、あながち無縁でもない。これだけ覇道を邁進していてもなお、まだ上がり目があるのだ。頭打ちになるのはさて、何十、何百年先になるのか・・・。

さて、この本のテーマといえば、タイトルにもあるように「投資的思考を身につけ、ビジネスに反映させる」。中心はここにある。投機じゃないぞ、投資だ。以下自分なりの解釈を述べる。投資はといえばお金を捧げることもそうだが、一番身近な投資先と言えば、自分の勤め先や取り巻くコミュニティがそれにあたると思う。「労働」だ。時間と労力を捧げることで、自分は会社から何が得られるか、また、どう貢献できるのか。ここを今一度掘り返して考えてみることにしようと思った。賃金はいくらもらえてるか。見合う対価があるのか。やりがいを見出せているか。時間と労力の使い方もまた、お金と同等に付き合っていかなければならないテーマだろう。思考停止が一番良くない。そんなことを読みながらふと考えた。あれ?脱線してる?いや、だとしても良いきっかけになったと、納得しておこう。うむうむ。

もうひとつ。投資が「会社を成長させる」という意味合いを持つならば、「経営者視点」にも通ずる境地を為しているのではないか。一介の平社員が何をのたまってんだと思う。自分のいる会社がより発展するには?というマインドは、ほとんどの所属する人間が無意識的にも実行しているだろう。そんなん、俺会社嫌いやし、会社が儲かろうが損しようが、給料さえくれたらええわ。という主義の人さえ、大小なり貢献して(しまって)いるのだ。投資的思考は、この覆せない事実をよりポジティブに実行・実現していくメソッドなのだと思う。労働者の視点のみから得られる恩恵は限りなく少ない。しかし投資的思考を身につけることが出来れば、どこの会社へ行ったってやっていける。自分で事業を起すこともまた然りだ。ま・じ・で、やらない理由はない。

最近の読書テーマは「お勉強」である。「お金の勉強」というのを、僕は学校でも職場でも習うことがなかった。しかし現代日本に生まれた僕は、この国で暮らす限り、資本主義経済から逃げて暮らすことなどできはしない。一生死ぬまで付きまとう命題なのだ。逆に考えよう、義務教育で習うことがなかったというのは、自分も含め周りの人間も大概同じなのだ。気付き行動する意義は大いにある。やるぞ。堅苦しくなったが、投資って面白そうだなと思った。今度は実際にやってみよう。ビビってるけど。行動しなきゃな。目標もなく、だらだらやるのも良かったけど、いささか退屈になった。退屈はいかん。退屈は殺す。生きた生活を送っていきたいやね。

ストイックなオヤジ

今さら何を言ったって

四の五の何歌ったってただのノスタルジー

生ゴミ持ち歩いてんじゃねえ

 

あの頃よりも、年々数段と格好良く男を磨き上げていってる気がするのですが、それを実感できる機会は少ない。だからやっぱり“気がする”なのだろう。マイナスからのスタートと思えば理屈が取れる。Lv.-30が、Lv.-5になったとて、本人にすれば大きな進歩なのだが、周囲から見れば「ほーん、で?」ってなもんだ。普通以下がようやく普通になった程度なのだ。朝起きるのも、時間守るのも、家賃払うのも、至極当たり前のことなのだ。

調子に乗ってる間は自己評価が非常に高い。周りがみんな馬鹿に見える。それ意味あんの?なんでせえへんの?俺はこんだけやってるけど?と、巨大なお世話を勝手に焼きまくっては1人でイライラもやもやする。

しかし、実際現実の立場を思い知らされた時、この優越感がそのまま劣等感へと100%逆振りする。調子に乗ってましたすみませんでしたと反省できるならまだ良い。それを受け入れられずに、わたしが〇〇なのはお前らが悪い!と、一旦引き上げた自己評価を下げられずに駄々こねてしまうこともある。最悪だ!死のう!と現実逃避することも。

最近よく耳にする「逃げてもいいんだよ」という文言を、神のお告げとばかりに依存してしまうこともある。そりゃもちろんブラック企業毒親やサイコ野郎と逃げずに立ち向かえってのは非常に困難なことだろう。でも自分自身の現状・現実・立場からは絶対逃げてはならないのだ。環境変われば周りは変わるが、自分は変わらない。逃げたという現実は消えない。逃げた先に道を見つけられるか、切り拓けるかは自分次第なのだ。「にげる」、「すてる」は断じてリセットボタンではない。わかるかい。その免罪符には裏面がある。表裏きっちり読んでください。

 

わからんもので、あんだけ辞める転職する喚き散らしていた僕は、会社に留まることになりそうだ。結局のところ、あの時の僕の選択は現実逃避に他ならなかったらしい。あとやり残したことがあるとも思った。辞めても残っても後悔はするだろうと思っていたが、やっぱりちょっと後悔する面もある。周りが辞めまくっているからだ。夢を追う者、上司にヤられた者、ハードワークにヤられた者、出産する者、理由はさまざまだが、みんな結局何らかに嫌気が差してるから辞めるという選択肢を選んでいるのだろう。

僕は今の会社が好きとは思っていない。むしろ嫌いである。だが、現状を会社のせいにして悪者扱いして逃げていく自分はそれ以上に卑しく、嫌いだ。間違っているでしょうか?正直自分でも半々です。しかし今は転職すべき時じゃなかった。もうここに尽きる。それより先にすべきことがあったのだと気付かされた。情けなし。これを成長と呼べるでしょうか?いや、結局ね、マイナスから普通になっただけなのよ。成長と退行を繰り返し前後してるだけなのよ。早くプラスに行きてえものだ。

ストイックなオヤジってモテると思うんだ。

あの街の名前を

朝ごはんにステーキ丼大盛りを食べました。玉かけは飽きました。こないだラーメン作った時のだし醤油が余ってて、保存もききにくいからずっと大量消費。玉かけはおろかステーキ丼の味付けもだし醤油。食べてる途中で飽きて焼肉のタレをかけました。ダメだね、退屈は人を殺すよ。退屈に殺される前に、こっちから退屈を殺してやろうじゃないか。今日から俺たちは退屈バスターだ。いや、退屈リジェクターだ。というわけで今日も元気に下品にいってみよう。がんばっていきましょお〜。お腹イタイ

最近芸人のYouTubeチャンネルをよく観ます。ランキング形式で1〜3位までつけるやつとか、トークテーマに基づいてべしゃりきかせるやつとか。今日のテーマは下ネタです。個人的「大阪風俗リピートランキング」。本当に良いものは繰り返し利用したくなるものです。同じ風俗に通い続ける人、色んなところを渡り歩く人、そこはそれぞれの好みですが、リピされるだけの魅力を持ち合わせているお店をご紹介しましょう。出張でしばらく大阪に留まるサラリーマン様なんかにご覧いただきたいですね。まずは3位からぁ〜カウントダウーン!

 

3位 〜アメリカ村 「ルパン」〜

大阪にはソープランドが存在しません。なんでかはグーグル先生に聞いてみてください。ソープはないが、店舗型マットヘルスというカタチで、本番なしで営業している店がいくつかあり、その代表格がここ、ルパン。よく通いました。朝、昼の部の割引がけっこうアツく、1万5千円以内でわりとちゃんと遊べます。ルックス・年齢ともに若干高めではありますが、嬢のマットスキルも軒並み高い。なぜか?それはこのルパンが業界の老舗で、ベテランの嬢が多いこと。それと、本番がないからです。前者はほんとそのままなので、後者の「本番がないから」ってとこに注目してみましょう。

似たような価格帯でサービス内容に「本番の有無」があるなら、そりゃあ有る方に行きますよな。ちょっと遠いけど、神戸まで足を伸ばせば福原っていうでっかいソープランドの聖地があるわけで。でもここルパンの魅力は嬢のマットスキル。本番がない分のハンデをきっちりと埋め合わせてくる。いちいちおっぱいの当たる位置だとか、マットに仰向けになった時のアングルだとか、単純にマッサージのスキルだとか。満足度を上げるためのこだわりが随所に感じられる。講習が徹底されてるのか、嬢によってのプレイの差はあまり感じられない。これは良くも悪くもですな。ただし、これだけはひとつ。この店を利用するなら、人気の高い嬢を指名して遊ぶべき。フリーなんてもってのほか。この店に素人感は求めてならない。でないとただの本番なしのソープランドごっこになってしまう。素人感求めて店舗型行くならピンサロだろう。値段も安くなるし。ランキング上位に入ってる人たちはほぼ間違いない。ちなみにお隣さんのクラブハーツってお店は姉妹店で、似たような業態でハコが違うだけって感じ。両方在籍してる嬢も珍しくなく、人手が足りない時は双方、ヘルプに訪れることも。そういう場合はネットに反映されないそうなので、パネルを見てのお楽しみということだ。老舗ゆえか、ボーイのお兄さんはけっこう無愛想で怖いから気をつけよ。

久々にホームページを見て、ランキングを確認したら、5年前当時によくお世話になった子が、未だに昼のランキング上位に入っていた。年齢と写真は変わっていないが。ハテ?

 

2位 〜GO GO 〇〇〜

「GO GO堺東」とか「学校でGO GO京橋」的な、ちょっとした設定のあるピンサロ系列店ですね。痴漢が合法のピンク電車に乗れるのが「GO GO〇〇」、学校に授業参観しに行って、気に入った子を持って帰れるのが「学校でGO GO」。このギミックほんと大好きです。双方に分けて解説しますね。

まずは痴漢電車の方。40分で11000円だったか。まず初めの15分は電車の中で、女の子を物色しながらリビドーを高める時間。あとの25分は、その中で良いと思った子とエンヤコラする時間。と、ざっくりこんな感じ。だいたい車両には3〜5人の女の子がいて、車掌さん(笑)の合図でかわりばんこに痴漢していくと。何でもかんでも触り放題ではなく、きっちりと時間ごとに分けられています。他の野郎どもも一緒の車両ですが、気になさらず。てか車両とか言ってるけど、ただの薄暗いピンク照明の部屋です。芸が細かいなーと思うのは、ちゃんと吊り革と横長のシートがあって、女の子たちはそこで待機してるということ。15分経過すると車両から降り、ボーイにどの子が良いか伝え、あとは仕切りのある半個室でウッホホーイと、そんな感じです。最高っすね。

次に学校の方。自分は授業参観に来た父兄という設定。学校の教室の、あの椅子と机に腰かけた女の子たちを順番に物色していくスタイル。この辺りは電車のとそう変わりません。変わりがあるとすれば、女の子の年齢層。制服着用が義務のせいか、やっぱり若い子が多いです。高くとも20半ばくらい。電車にはOLっぽい子も乗っているので。ほんでボーイに好みの子を伝えてサービスサービスゥってな流れですな。こちらも値段はほぼ一緒。40分11000円。

さて、この2つのお店。最たる特徴はまさに「リアル指名」。パネルではなく、実際に見て触って女の子を選んでいく。色んな子を味わえるので、ここでも役得感がある。他の野郎と被った場合は待たされる場合もあるが、駄目だということはない。満足度高いですね。体験談としては、堺東のピンク電車でリアルな知り合いと遭遇したことでしょうか。元バイト先で一緒だった人が吊り革につかまって、決してこちらに振り向こうとはしませんでした。いや、車両乗り込んだ瞬間から気付いてますねんこっちも。しかし順番は回ってくるもので、後ろから物色しつつ、しっかりとF乳を堪能させてもらいました。あの頃には聞いたことない、甘ったるい声してました。なんかごめんなさい。でも仕事だもんね。おじさんもこの沸き立つ性欲をどうにかしないと死ぬからね。指名はさすがに避けましたが、貴重な体験でありました。価格も安いし、単純にエンターテイメントとして面白かったのでおすすめです。

 

1位 〜和泉市信太山新地」〜

きました。本日の主役。大阪屈指のコストパフォーマンスを誇るここ信太山新地。南大阪に住む野郎どもに、その名を知らぬ者はいません。初めに言うと、この和泉市って大阪市内からけっこう遠いです。最低40分はかかります。駅からもちょっと歩く。車で行くのがベスト。飲んだ帰りにってのはちょっとめんどくさいと感じる距離です。

大阪には「新地」と呼ばれる料亭街がいくつかあります。有名なのは「飛田新地」。モデル級のレベル高い嬢が多数ひしめく、実際に女の子を見て物色できるという、この現代日本にそんなとこあるの?と疑うような風俗街です。ここ信太山新地はかつて、それら新地の中では3、4番手の存在でした。しかしここ4、5年でしょうか、この評価がめきめき覆りつつあります。個人的にはナンバーワンあげてもいいくらい。いくつかの要因をお伝えしましょう。

まずは単純に嬢のレベルが上がったと言われています。飛田がモデルみたいな華やかな嬢が多いのに対し、信太山は素人感のある、かわいいなーって子が多い印象です。年齢層ですが、信太山の方が低いです。これマジで。大学生とか高卒でOLやってますくらいの子がけっこういる。「顔バレしにくい」という、後述するこの新地の特徴もあって、女性の入店するハードルを下げていることも、分母を増やしている要因の一つ。顔がネットに出回ることもない。お店に行ってもパネルすらない。顔を見るのは個室でご対面する時だけ。プライバシーが他と比べてしっかりしているという女の子にとっての魅力もある。ここ数年力を伸ばしているのはこういった背景があると思います。

ブサイクやおデブちゃんはいません。この信太山の特殊なシステム、「番頭のおばちゃんに好みを伝えて、それに沿った子を連れてきてくれる」という形式ゆえ、パネルも実物も指名も何もない。おばちゃんこそが全知全能の神。性を司るサキュバスなのだ。脱線した。とにかくこのシステムは「信用」がものを言うことにお気付きだろう。おばちゃんが本当に可愛い子を連れてきてくれなければ、商売としておよそ成り立たないのだ。

さて、ここ信太山新地の遊び方ですが・・・どこから説明したものか。新地の中に、座敷のお店がいっぱいあります。有名どころは「銀猫」、「きさら」あたりでしょうか。女の子たちは「センター」と呼ばれる集会所的なところで待機しており、“おばちゃんからお呼びがかかったら、それぞれのお店に派遣する”というスタイルです。つまりお店を変えたからといって、出てくる女の子がまったく変わるわけではありません。が、お店によってランクが分かれている、と聞きます。たとえばAランクのお店には、全ての女の子を派遣できる。Bランクのお店にはBランク以下の女の子しか派遣できない。といった感じです。ざっくりですけどね。ですが、そもそもの入店基準が低くないせいか、どの店にいってもハズレと呼んでしまうような子には会ったことがありません。両手では数え切れないくらい行きましたけども。

まず新地に入って、ウロウロしてみましょう。店先からおばちゃんがよく声をかけてきますが、優しめです。営業のきっついおばちゃんはいません。もうなんとなく雰囲気で決めちゃっていいと思うんですけど、「きさら」は待合室もシャワー室もベッドも全部小綺麗です。そういう点では「きさら」がおすすめですね。「銀猫」は有名な網膜認証での登録が必要なお店です。んでだいたい予約客で激混みです。そういうのもあって僕はまだ行ったことないです。一回くらいは行ってみたいんですけど・・・え?僕がよく行くお店?やだなあ、そんなの・・・言うわけないじゃないですかァ・・・

1位への愛に溢れた記事になってしまいました。仕事中の休憩時間全部使って書いた。でも今日あげた3つは、僕が自信持って人に勧めたいお店ばかり。だいたいの風俗店って、一回行ったらもういいやってなってしまわないですか?僕はそうで、それでも何度も通ってしまう魅力に溢れております。でもさ、こんなブログよりさ、俺履歴書書かなきゃいけないんだよ。自己PRとか知らねえよ。客観的意見をくれよ。あゝ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

何処へ

初めての喫煙はいつだったか。

マルボロメンソールライトという、白にエメラルドグリーンの装飾が入った、マジでめちゃくそ美味いやつ。未だにたまにもらいタバコしては「いっちゃんうめーわコレ」言ってます。ほなそれにしたえーやんという話なのですが、自分、病的な飽き性でして。一ヶ月も同じタバコ吸ってると、ただケムリ吸ってるだけ、というか。実際そうなんですけど。こう、味気がなくなってくるんです。味わうんじゃなくて、ただ欲求を解消してるだけ。ニコチンの中毒症状にあてられてるだけのようなあの感じがなんか嫌でしてね。どうせ吸うならちゃんと味わいたいじゃないですか。仕事中イライラせかせか喫煙所に立ち寄って、範馬勇次郎ばりにジュウゥ〜ッッと2本ばかし5分で吸い切って、またイライラしながら仕事に戻るような、あれ絶対身体にも心にも悪いじゃないですか。燃え尽きてゆくタバコにも失礼だ。ただのニコチン切れを満たすためだけに身体悪くしてタバコ吸うってのは、マ・ジ・で害悪でしかないと思う。のたうち苦しんで早死にするリスクを重ねてるだけだ。

身体に良いお菓子なんてないように、時には化学調味料まみれのラーメンが食いたくなるように、脂とカロリーまみれの牛タンを焼肉のスタートに欲しくなるように、身体に悪いものってだいたいが美味いんだよ。んでまたユウジローのとっつぁんがさ、「毒もまた喰らえ」って言うんだよ。味覚オンリーで言うならタバコなんてただの有害ガスで、焦げ臭くて美味いわけがないんよ。焼き網の隅で焦げたハラミの残骸食ってるのと変わらんのよ。

喫煙者は味覚狂うって言うじゃん。本当に狂ってるんだよ俺達の味覚は。1年ほど禁煙していた時期があったが、メシがうますぎて15キロ太って、持ってた服ほとんどが着れなくなるような事故が起きたんだ。ほんで禁煙失敗して吸いはじめたら飯がまずくて食わなくなる。結果元の体型に戻る。欲望なんて少ないに越したことはない。4つ目の欲求をわざわざ作る必要など、本当はどこにもないのだ。

だがそれでも俺達はたばこを吸う。あいつは、たばこは、俺の喜怒哀楽を近くでずっと見てきたから。美味い不味い以外の感情と直結してしまってるのだ。うまくいかねえ、どうすりゃええと押し寄せる不安。飲み屋で咲かせた与太話。その近くにはいつも、たばこがいたんだ。薬理的作用を求めてたばこを吸っちまった人間が、こいつから離れるには相当な覚悟がいる。恋人であり、友でもある。これは酒なんかも同じこと言えるだろう。禁煙ブームみたいになってるけど、依存して危ないのはあいつも一緒だぜ。副流煙よりモラル失った酔っ払いの方が不快だな俺は。僕個人が酒弱いひがみもありますハイ。すみません。

そんなわけで、未だに禁煙なんてクソ喰らえだというスタンスを崩せずにおります。匂いが深いだという意見ももちろん理解できる。だから扱いめんどくさくて味気少ない加熱式たばこなんて吸ってるんだけれども。たまにはさ、慣れ親んだセブンスターをスパーッとやりたくなるよね。美味いんですよ。お菓子食うとか酒飲む感覚と一緒。味気はある。百害あって一理あり。たばこ吸ってたから出来た縁も多々ある。はからずも心の拠り所にさえなってしまっている。禁煙なんてクソ喰らえさ。たばこが違法になるまでか。一箱千円になるまでか。行こうぜ。白煙立ち昇る、高みのその先へ。

セミの鳴く声と

裏庭で草刈機の音が響いている。雷も鳴っている。部屋に据え付けのエアコンはゴーーーと部屋全体を振動させる。時々バイクが通り過ぎる。もはや時計のチクタクすらも騒音。わたしの自律神経は夜勤でやられている。人間は夜眠るように出来ている。

先日は雪が降った。2センチばかり積もっていた。目覚めにパンチ食らわせるかのように、首から上が凍りつくような寒さだった。顔専用の布団なんてないものだろうか。頭寒足熱などぬるい。いや寒い。

しかし人間の体温は36℃前後が正常だというのに、なぜ気温が36℃ともなると、命に関わるような症状に見舞われるのだろう。36℃の湯に浸かると、ぬるく物足りないのだろう。難しい。その雪が積もった日に、アパートの階段で、きれいなセミの死骸を見つけた。気温は-3℃。到底セミが殻を破り、飛び立てるような気温ではない。冬にセミ。雪にセミ。この奇妙なアンバランスさに、一抹の喜びめいた感傷が押し寄せる。なんかちょっとレアなもん見たわ的な感情だけでない。なんだか俺は嬉しかったのだ。今すぐにでも自慢したい。雪が降り注ぐ厚手のジャンパーの肩に彼の骸を乗せ、街中を闊歩してやりたい。手に取ると予想外に軽かった。そのまま雪の上に放り投げる。羽は微かにもバタつくことなく、雪にめり込まれていった。なんか、“そんな”気がしたのになあ。

俺はパチンコ台になりたいんだよ。そう言った漫才師があった。年末にあった漫才頂上決戦のその動画を、もう10回以上は見ている。思い出すたびに見たくなるのだ。たまらん。でもレーズンパンが見た目で損してるかというと疑問だ。あいつは味でも損している。ただのコッペパンでいい。レーズン抜きのパンでいい。ブドウは干さなくていい。だが北海道マルセイバターサンドのレーズン。なぜだかな、おまえだけは嫌いになれんのだ。発酵臭もニチャニチャ感も、おまえのソレだけは愛せる。好きな女の子のソレの味と匂いは愛せるようなも・・・ごめんなさいもうやめますこんなこと書くの。

寝れねえ!寝方忘れた!羊で部屋いっぱいだよもう!次はペンギンでも数えるか・・・

共感

矛盾している。理不尽だ。いけすかない。抗えない。選択することは、何かを諦めることでもある。君に夢はあるか。希望はあるか。その根拠とは何だ。選択を放棄し、ドロっとわだかまったそいつをこぼさぬよう、じっと抱えてるだけならば、さぞ空虚で夢も希望もない泥濘に仕上がっているだろう。

しかしそれはそれでも、こんなもんやでと受け入れられるならば、アイデンティティとして成り立つのも不思議でない。「空洞です」のように、突き詰めた完成形が「空虚」だったとしても、キャリア最高の完成度を誇る金字塔として、人々の心芯に刻まれたのだ。

クリエイターにおいて、「創作にかかる思想・技術」以外は、すべて不純物だというのが持論である。いくら稼ぐだとか、生活はどうするとか、売れる売れないとか、ありとあらゆる不純な動機をかなぐり捨ててモノは作られるべきなのだ。バラエティ番組には絶対出ない漫才師がいてもいい。女に媚びないバンドマンがいてもいい。収益を捨てるユーチューバーがいてもいい。もうほんと早い話、金が絡むとコンテンツが面白くなくなるのだ。他に収入源を作るべきだ。日雇いでもバイトでも、土日休みの過ごし方でもいいじゃない。理想は24時間365日、神経を創作に注ぎ込むことだけれども、創作はかかる熱のイノセントさを失った時点で「完成」する。良くも悪くもだ。後の創作は全て「エピソード0」とか「AFTER」の類だ。

どこまで突き詰めようと上記の類は「娯楽」なのだ。エンターテイメントなのだ。昨今の新型ウイルスの影響をモロに食らいながらも、行政の手がエンタメに厚く差し伸べられなかったのはもっともな話である。生きるために必ずしも必要なものではないのだ。仮に新しい娯楽コンテンツが二度と生み出されることがなかったとしても、今まで自分が好きだった思い出を貪るだけで、それなりに楽しくやっていけると思う。こんなことは言いたくない、が、娯楽はとっくに「完成」しているのだから。「懐かしさ」を追い求めた時点でもう出来上がっちまってるんだ。ノスタルジーを越えていくような創作を今現代のアーティストが作り、大衆が受け入れることが出来るのか。正直ね、僕はもう無理だと思うんだ。少なくとも、僕が生きてる間は。「進化」でも「変化」でも「再生」でもなく、本当に僕らが欲しがっているのは「創造」だ。これは全てのアーティストも願い欲するものだろう。

こんなクソほど分かりきったションベン臭いことを熱く語っちゃうのには理由がある。もう僕は何年も「新規開拓」をしていない。音楽、映画、美術、読書。今までに経験し、良いと分かっているものしか取り入れず、新しいものに手が出ない。ぶっちゃけ満足してるもの。

しかしだ、未だに新規開拓をし続ける分野がひとつだけある。「エロ」だ。ズリネタを探す時、僕はいつでも“一期一会”の気持ちで臨む。同じネタで抜くことはそうない。一つの動画を見つけてもさらに、その中でピークを迎える瞬間、抜きどころを模索し、10秒巻き戻し・早送りに勤しむ。これだけは何年も続いている習慣だ。

風俗においてもそうだ。まだ経験していない業態もお店も星の数ほどある。他の趣味もそう?馬鹿言ってんじゃないよ。音楽?読書?無くてもなんとか生きていけるだろうが。でもおじさんは脳みそから滲み出す性的欲求をどうにかしないと死ぬからね。3大欲求って言うくらいだよ。一生涯かける価値のあるテーマなのだ。

しかし、エロの現実は厳しい。新しいエロを開拓するにも結局、棒と穴の邂逅からは逃れられないのだ。常識の範囲だけどね。世界は広い。アダムとイブの時代から何も変わっちゃいないのだよ。

いや、ちがうか。それを違えてしまったら、音楽を尻の穴で聴くようなモノか。いずれにせよ、おっさんには時間と体力がないのだ。新しいものを取り入れ続けるのは体力を使う。必然的に時間も使う。エロだけで精一杯。

原稿用紙4枚分ほどの文字数をかけて俺は何を言っていたんだろう。今日はなんだか話がブレブレだ。結局のところ「不純物もなんだかんだ、良い味出すよね」ってなことが言いたかったのだろうと思う。新年、明けました。今年も、いや、今後ともよろしくお願いいたします。

影が濃い

大学生として過ごす時間というのは、いかに無駄なこと、大人になってからは出来ないようなことをするためにある。

僕の学部は124単位とれば卒業できる。ざっくり週5で1日3〜4コマも取っておけば問題ないくらいのものだ。集中講義や卒論諸々入れればいくらかコマ数を減らすことも出来る。そんな僕の3回生修了時の単位数は42。1年じゃないぞ。3年間だ。何してたんだろうな。その「何」について振り返りながら書いてみようと思う。

『全ミ』

高校で軽音部に所属してバンドをやっていた僕は、大学でもバンドをやるかと軽音学部に狙いを定めていた。語学の講義で知り合った同じ軽音志望の男(AM)に全ミってのがあるらしいで!と聞き、その全ミ、全体ミーティングとやらに顔を出してみることにした。

一回生は自分を含めても10人弱。100人所帯の部活と聞いていたから、例年よりよほど少ない人数だったらしく、教室のドアの向こうから(少ねえな・・・)と聞こえてくる。用紙を渡され、名前やら希望パートを書いていると、テンガロンハットを逆さに裏返し、肩から花の輪っかをぶら下げ、アコギを持った細身の男(春菊さん)が現れた。この人が部長かと、戦々恐々とした。続いて長髪のヒゲをたくわえた顔の濃いイケメン(シュートさん)が現れ、ハットの人に向かって帰れと恫喝した。この人が部長かと、また戦々恐々とした。

部長からチームギアってのに登録してほしいと説明があった。当時はスマホがまだなく、ガラケー全盛の時代。メールでのやり取りが主流だった。懐かしい。ここから一括で連絡をするとのことだった。これが終わり、2回生以上の先輩方がザーッと教室になだれ込んできた。大声で叫びながら。戦争でも起こりそうな雰囲気の中、自分たち1回生は教室の前に並べられ、自己紹介の後、各自あだ名をつけられることになった。人によっては黒歴史になりかねないヤバめのあだ名を付けられることもあるようだが、自分は高校から呼ばれていた「ゆきち」で決まった。本当に良かった。余談だが、僕のあだ名は本当は「ランチ」になる予定だった。でも今は夜だから、とよくわからない理由でなくなった。本当によくわからん。

この部活マジで大丈夫かなと思っているうちに全ミが終わり、みんなでガストに行こうとなった。パーマを当てた先輩(らっさん)からチーズインハンバーグのクーポンをもらった。ラッキーと思っていたところに、ドレッドに眼鏡をかけた怖そうな人(ゲバルさん)が「オイ、ちゃんとソレお礼言うたんか?」と言われた。「え、あ…はい」とモゴモゴしていたら、舌打ちっぽくチッと言って去っていった。え?なにこれ、怖すぎひん?怖そうなっていうかストレートに怖かった。やっぱりこの部活大丈夫かなと、僕はまた思っていた。

『酒』

どこの大学の部活・サークルでも、「酒を飲む」というのは大いに共通する行いである。ある日、ラジオを放送するからと、新入生の僕を含めた3人が声をかけられた。先輩の家で鍋を囲みながら、仲良くネットラジオを生放送しようじゃないかということだ。面白そうだと思ったこの日、初めて酒という魔物に取り憑かれた人間の狂気を目の当たりにしたのだった。ラジオでは怒号の下ネタの嵐。酒が足りねえとコンビニに向かう途中、道端の植え込みにダイブする人。自販機の中に入ろうとする人。カラーコーンをかぶってガードレールに頭突きする人。マジで頭おかしいこいつらと思っていた。しかし、自分はそれを見ながら馬鹿みたいに笑い転げていたのだ。おかしいはずなのに、気を違えたとしか思えないのに、それを面白いと笑う自分がいたのだ。

「あ、もう逃げらんねえな、俺」

改めて、ここで思い知らされたのだった。

『打ち上げ』

先程の「酒を飲む」に通じるハナシになるのだが、数ある飲み会の中でも、とにかく狂気のボルテージが軒並み高いのが「打ち上げ」だ。軽音学部の本分である演奏。ライブ。大きなもので「学祭」、「定演」、「追いコン」がある。高まったあまりに泣き出す人も続出する。また、学祭の打ち上げは特に荒れる。学祭には軽音学部の全バンドが出演するのだが、この中で8組の「定演出場枠」を競い合う。その投票結果が打ち上げで発表されるのだ。歓喜。焦燥。憤怒。悲哀。後悔。あらゆる感情がごっちゃに渦を巻く水槽に、アルコールという狂気を混ぜる。まぜるな危険。ちらっと周りを見ると必ず誰かしらか泣いている。お店の店員も困惑気味。ってか引いてる。しかしそんなことは気にしてられない。これが自分たちのすべてなのだ。全身全霊全力で打ち込んでいることなのだ。もっとサービスようせんかいワレェってなことしか考えられない。人の目なんて微塵にも気にしていなかった。

『合宿』

夏と冬に合わせて2回。合宿が行われていた。この行事は至ってストイックなもので、期間中は酒は禁止。持ち込むのも固く禁じられ、見つかった時にはわりとガチで幹部に怒られる。上手い先輩に教えを請うたり、ボイトレや作詞・MCの講座みたいな小イベントもあった。あとはひたすら練習。バンドでも個人でも。4泊5日かけてマジにやり込むので、自分はこれのおかげで上手くなった気がしている。酒飲みに部活に出入りしている人には、いささか居心地の悪い行事だったかもしれない。たばこを酸素かのように取り込みながら、ひたすらギターを弾きまくる。もうあんなことないだろうな。またやりたいかも。

しかし禁酒が続く分、ここでの打ち上げは多少なり狂気を増す。梅酒や安ウイスキーのボトルを真ん中に円になり、いっせーのーせ!と親指を立てるあのゲームをしている人たちが突発的に現れる。勝ったところでプラス要素などなにもない。死ぬために行われる自殺祈願、闇のゲームだ。ここまで散々酒を狂気だとたとえてきたが、私、滅茶苦茶に酒に弱い。すぐ顔が真っ赤になる。よく心配されるほどに。しかしここではそんなことなど関係ない。飲めば強なると信じて疑わなかった。もし強かったら、色んな女の子を飲ませて酔わせてあららだいじょーぶ?と、うらやましいこともいっぱい出来たんだろうなと、ふと考えることもある。トイレに吐きに行くフリをして、逃げ出しては連れて行かれの繰り返しだった。ああ地獄。

なんか色々思い出してきたので、次のネタもこれにしよう。おやすみ。