霧ヶ峰

田んぼと畑をの間を清流が流れる。こんな景色ばかりのこの街を人は田舎と言う。しかしここには確かに人の営みがあり、築かれてきた文明があるのだ。荒れ果てた雑木林や、ツタの巻きついた空き家ばかりでもない。都会の喧騒には程遠いにしても、人の手が入り、開拓された自然の成った姿なのだ。

「なんもない」と人は言う。確かに煌びやかなショッピングモールも、小洒落たカフェレストランもここにはない。あるのはコンビニと、初見の者が入るには躊躇われる常連ばかりの定食屋くらいのものである。

夜勤明け、まだ暑さにうだる前の朝の日差しの中、田んぼの間を縫う車道を走らせていた。等間隔で並び広がる稲が美しい。何かで読んだのだが、イギリス人が奈良県のローカル線の車窓から広がる風景を見て、「日本の風景は美しい。こういった閑散とした田舎町の景色でさえ、人の手による発展が見られる。私の国では荒れた雑木林や何もない荒野が多い」と言っていた。

今日は良い天気だとか、水の流れが美しいとか、四季の匂い、景色の移り変わりだとか、そういった目にとまりにくい些細なことにいつまでも感動していたい。情緒を愛せる人でありたいのだ。来月か再来月に引越しをすることになったのだが、新居の目の前には大きなため池と隣接した広場と公園がある。見学しに行った時、窓から見える景色に感動して「ここしかない!」と決めたのだ。池の外周でランニングする人々、公園の遊具で遊ぶ子供たち、それらの姿をオレンジ色に染まる夕焼け、窓からはそんな景色が映っていた。いいじゃないか、1番の理由がこんなのでも。駅近とかスーパーやコンビニの有無はもちろんだが、家にいる時の暮らしの豊かさを忘れてはならない。もうすでに楽しみだ。