復讐について

作品が「名作」と呼ばれるにあたっては、そのもののクオリティはもちろんだが、いくらかの年月がどうしても必要とされる。ほんでその情報が自分の耳に入るのにもまた、多少のラグはあるだろうが時間がかかる。たとえばクイーンのあの映画、公開前から各広告媒体で取り沙汰され、公開してなお想像を超えて、お茶の間まで広く浸透した稀有な例である。上映期間は1年以上。DVD、ブルーレイの売り上げも序盤から絶好調。コンテンツにお金を払わなくなった昨今の世に突き刺さる、文句なしの「名作」である。

俺も公開前にテレビやYouTubeのCMなりで目にすることはあって存在は知っていたが、ここまで爆売れするとは思っていなかった。異常と言ってもいいくらい。少なくとも日本に限っては、国を挙げてただひとつのバンドに熱狂していた。

さて、ここまで書いてはみたものの、俺、観てないんだよな、ボヘミアンラプソディー。タイミングを逃した、という感じ。知人友人がこぞって絶賛し、劇場で観ろ、頼むから観てくれとまで言われたが、ほんと、なんとなく観に行くタイミングを逃してしまっただけなのだ。あえて言うなら、みんながみんな観ているから、じゃあ俺は観ないというしみったれたアナーキズムを拭い去れなかったから、かもしれない。幾ばくかはね、あるよ、そういうきもち。

作品を見ずに批評云々も言えたもんじゃないので、内容についての言及は避けるけれども、大人が金とマンパワーを惜しみなく注ぎ込むと、こういう現象が起こるんだなと思った。かけた広告費、えげつないよ絶対。どんなに質の高いものだろうと、知られなきゃ手に取りようがないもんな。それでかつ、「多くの人」を唸らせる、ちょっとひねた言い方をすれば「万人受け」する要素がなくてはならない。「誰にでもわかる」ように、「誰にでも届かせる」機会を作るためにどれほどの労力と金を費やしたか、それによってどれだけその対価を回収出来るのか、今日の日銭のことで手一杯の自分には、到底計り知れない仕事なのである。

前置きが長くなった。本題はここからである。世には「名作」と呼ばれるコンテンツが多々存在する。映画、ゲーム、書籍、音楽、絵画、建築、舞台、挙げればキリがないし、歴史を遡れば、その数字は人間の一生をかけたって全てを網羅し得える数ではないだろう。その中から手に取ったひとつひとつは、その人それぞれが膨大な作品の中から手に取った、限りあるものであり、かけがえのないものなのだ。人間の寿命が5、6百年あるなら、大多数は味わうことが出来るのかもしれないが。

まあ、とはいえ、「名作」の定義は曖昧である。ボヘミアンラプソディーをおもんないわって感じた人もいるだろうし。それぞれのフィルターを通す以上、100%の名作というのはこの世に存在しないと言っていいだろう。ジ○ンプで3ヶ月で打ち切りになった漫画の単行本を、後生大事に宝物として扱う人も存在する。俺の弟みたいなヤツがね。

最近スマホの有料コンテンツで、クロノ・トリガーを買った。スーファミ時代のソフトだ。91年生まれの自分にとっては、後追いでしかプレイすることのないだろう作品である。これがまた面白い。平成発売のゲームソフトでNO.1に輝く理由が確かにあると感じた。いや、まだクリアすらしてないし、物語も中盤なんだけども。

正しい審美などこの世に存在しない。平たく言えば、良いか悪いかなど自分自身で決めれば良いのだ。それで飯を食うのならば話は別だが、経済を伴わない完全な趣味で済ますのであれば、人の評価など一定の価値以下のものをはじくふるいでしかない。まあ逆にそのくらいの価値はあるとも言えるが。限られた時間の中で「駄作」を追っている暇はない。やはり手に取るなら「名作」が良いに決まっている。ああ、もちろん「自分にとって」のね。働き出したらなおさら、趣味にかけられる時間は少ない。何でもかんでも手に取る必要はないし、その頃にはある程度自身の嗜好もはっきりしてきていると思う。

まあ、自分のフィルターで自分が気にいるであろうものさえ弾いてしまうアマノジャッキーな人もいるがね。俺、クイーン好きなのに。