クソが死ね

好き、嫌い、どっちが多い?

こんな質問を某SNSでしてみたのだった。結果は8-2で「好き」が勝った。この質問に「嫌い」を投じる人と、仲良くしたいとは思わないが、とても魅力的に思える。いるでしょう?何に怒ってるのかも分からないくらい常に気を荒げてる人。ありゃー俺には出来ん。まあ遠目からみてる分には退屈しないというか、絶対関わりたくないけど。まあ好きだ。いや、やっぱ嫌いかも。

俺は「好き」の方が多いと思う。最近の判断基準はズバリ、「品性の有り無し」でね。一本芯がビシッと入ったような、美しさというのでしょうか。あまり狡っからいのは好きじゃないです。でも泥臭いのはいいよな。狂おしいほど好き。ガバガバだな。クズにもクズなりの品性があるもんな。

しかし「好き」の方が多いというのに、なぜこんなにも「クソが死ね」という気分で過ごしているのだろうか。およそ8割は「好き」に溢れた世の中で、7割方は「ぶっ殺す」なんて物騒なことを思い煩っている。まあ、仕事に限ったハナシではあるが。プライベートは好きだぜ愛してるぜに満ち溢れているのが救いである。

思うに、自分の品性が欠けているのではないかと結論した。妥協と理解の違いは、意思と行動の一致・不一致にある。職場での俺は、他人にはおろか、自分にさえ妥協して見過ごしている。これはいけない。たびたび訪れる「俺こんなやってんのに」「俺のせいじゃない」という自己弁護の嵐。好きなのは自分と、自分が楽しいと思える環境、人だけ。きっぱり、美しくねえ。醜い。こんだけ金もらえりゃ良いと続けてきた仕事だったが、どうやらこのやり方も年貢の納め時のようだ。少しばかり、疲れてしまった。

優しくなろうと思う。仕様のない理不尽に対して何クソ畜生ぶっ殺すと意気込んでやってきたが、もうすこし優しくやりたい。理解したい。妥協は、そのチャレンジの後でも間に合う。つまるところ、俺は俺を理解したいのだ。そのためにあのクソ部長もダメ先輩にも、理解を試みてみようと思う。モヤモヤを残さないで家に帰る。これが当面の目標である。え、辞めないのかって?負け犬はもう2度と御免だ。ベーだ。