殺せよ

「誰とでも寝るような、そんな女の子が好きさ」と彼は歌い出したんだけど、当時19歳、ションベン臭い10代の恋に耽っていた自分には到底わからない言葉だった。それからまあ何年か経ち、色々な色々を経験した今だからこそこの言葉に「あーなるほどな」と一抹のシンパシーを感じるのかもしれない。「詩人」と形容される彼の境地・思想には至り得ないし、まんま的外れなのかもしれないけれども。

意中の女性に恋したとき、それまで月一程度に会っていたセックスフレンドにしばしの別れを告げたことがある。言葉を遠回しにこねくり回して伝えると、彼女は明るく振る舞いつつも、時折腕や背中に絡みついて、話題にあった俺が教えたバンドのことか、あるいは俺に対してか、好き、好き、と呟くのだった。頭をよぎったのは“めんどっちいな”だった。言いたいことはわかるが、ひとまずそれは飲み込んでもらいたい。まだあんねん。

俺が求めていたのは得体の知れぬ不安のはけ口だとか、単純な欲求の解消だとか、まあ一つにはまとめきれないのだけれど、野良猫みたいに時折お腹すかせてやってくるような、気紛れで奔放な存在であってほしい、自由であれ!というような願望があった。勝手も勝手である。しかし彼女達も俺と似たようなものを求めていた。彼女らの言葉の上っ面を信じるのであれば、な。俺自身はバイブやローターのような性玩具として見られても一向に構わないし、逆に俺はそういう目で見ていたフシもある。そんなに卑下することもないと思うのだけれど…

ともあれ、互いの暇を埋める都合の良い存在として成り立っていると思っていた関係であったが、行為に耽るうちに何らかの情を携えたらしく、リレーションシップに歪みが生まれてしまったのだ。さあどうしたものか。俺は後悔した。ああめんどくさい。大いにめんどくさい。その情を携えてしまったあの子がいくらか傷ついてしまうことが面倒くさい。それ以上の関係に発展することも、それを望むことすらもないと互いにわかっていると思っていたのだが。まあ、そんな器用にやれるもんじゃなかったのだ。俺達は猫じゃない。猫以上に気紛れで自己中心的な人間様だった。

ベンジー先生が思う「誰とでも寝るようなそんな女の子」とは何だったのだろう。ただのプッシーキャットだったのか。拗れたとしても、それはそれとして「好きさ」と言える度量があったのか。俺も少しくらいはそう思えるようになった気がしている。当時のあの子はその後京大生と付き合って、京都南インターのラブホ街を制覇するのが目標だとか、そんな風の噂を聞いた。彼女らしい。ちなみに曲のタイトルを知ってるか?「左ききのbaby」である。なるほど、やっぱりわからん。